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日韓併合100年

 今日で日韓併合からちょうど100年になるという。先日、菅直人首相が日韓併合100年を迎えての談話を発表し、日韓併合条約無効論を髣髴(ほうふつ)とさせる驚愕の認識を呈してみせた。一方、日本の貢献については、一行たりとも割かれることはなかった。これが「歴史に対して誠実に向き合い」「歴史の事実を直視」した結果といえるの だろうか。こんな見方もある。

 日韓併合100年にあたっての菅直人首相の談話について、日本統治時代を知る元韓国空軍大佐の崔三然氏(81)がインタビューに応じ、「これは日本の首相としては失格だ。かえって互いの信頼を失う結果になる」と危惧の念を表明した。主なやりとりは次の通り。(聞き手 軍事ジャーナリスト・鍛冶俊樹氏)

 ――8月10日に菅首相が日韓併合100年にあたっての談話を発表しました。これについての考えは

「これは日本の首相としては失格ですよ。日本人としての立場を弁えていない。併合から100年、戦後65年も過ぎたのに、今さらどういうポジションでああいうことをしゃべっているか、さっぱりわかりません。もうこれは日本の終末ですね」

 ――内容的には1995年の村山富市首相談話の繰り返しだとも言われるが

「いやもっとひどいですよ。村山談話は単なる謝罪であって、そこから共生を目指すともいえる。菅談話は、その次に出て来るものは日韓基本条約の無効ですよ。そもそも植民地というのは15世紀から始まりました。近現代史というのは人類における植民地時代だともいえる。世界中至る所、植民地だらけでした」

 ――確かに世界史の地図帳を見るとその通りですね

「アフリカなどは植民地時代が終わっても貧困からなかなか抜け出せない状態です。では植民地から近代的な経済発展を遂げたのはどこですか。韓国と台湾ですよ。ともに日本の植民地だった所です。他に香港とシンガポールがありますが、ここは英国のいわば天領でした。インドは英国の植民地として代表的ですが、インフラが整備されておらず、なかなか経済発展ができなかった。今、インドは経済発展しているといわれますがそれでも1人当たりのGDPは890ドル、識字率も64%に過ぎません」

 ――韓国と台湾は日本統治時代にインフラが整備されていたと

「戦前、鉄道、水道、電気などの設備は日本国内と大差なかった。これは諸外国の植民地経営と非常に違うところです。諸外国は植民地からは一方的に搾取するだけでした。日本は国内の税金を植民地のインフラ整備に投入したのです。だから住民の生活水準にも本土とそれほどの差がありませんでした」

 ――教育はどうでしたか

「私は日本統治時代の教育も受けました。当時、日本国内で行われていた学校教育と差がありませんでした。また日本の陸軍士官学校には朝鮮人の入学を認めていました。当時の諸外国では自国の陸軍士官学校に植民地の人間の入学を認めたりしませんでした。つまり日本は教育においても差別をしていなかった。当時の諸外国は本国と植民地を明確に差別していました。植民地とは搾取の対象として経営するものであって差別されて当然でした。日本は差別をしないように併合したわけで、いわゆる諸外国の植民地支配とはまったく違っていた」(28日付産経新聞「【日韓併合談話】日本の謝罪などいらない 韓国保守派の嘆きと憤慨」より)


 このような真実も踏まえ、韓国は日韓併合をひたすら非難するのではなく、ともにかつての仲間、同志であったことを喜ぼうではないか。日本と韓国は、これからは仲良くありたいと願っている。それでも、韓国には(1)国際司法裁判所で竹島の領有権を確認すること(2)日本を訪れる国民が慎みの心を持つよう努めることをお 願いしたい。その先に真の友好があると信じて……。

 特に(2)日本を訪れる韓国人が慎みの心を持つよう努めてほしい。抑制を美とする克己、人間との協調、他文化の尊重は、韓国人にことごとく欠ける性質である。百歩譲って、自分の国でこうしているのなら、それはそれでありなのかもしれないが、わが国に来て、あるいは住んで、わが国の法規範やルール、マナーへの 不服従は許されない。なかでも克己心の欠落は重大な問題である。これは日本人のように、「喜」「哀」「楽」まで制限されるものではない。葬儀の際に泣き喚く韓国人の姿は、他文化圏に属するわれわれにとって、はなはだ驚くものである。それでいて、葬儀が終わると、ケロッとしている。これもまた解(げ)せない特性である 。われわれが自分の気持ちを抑え、相手に悟られないよう努める文化を持つことはいうまでもないが、こういった韓国人の特質は否定すべきでない。ただ、こと「怒」に関しては、「好き勝手」では済まされない。それは、人に迷惑をかけるだけでなく、人をおびえさせるから。日本を訪れる韓国人には、どうかこの点だけでも留意 していただきたい。

 あらぬ歴史をもとに「ゆすり」「たかり」を続ける韓国に明日はない。なぜ在日韓国人を煙たがる日本人がいるのか。そこをもう少し理解した方がよろしい。また、正義や秩序に反することは、韓国人同士で注意しあってほしい。従順で善良な韓国人が最も損をすることになり、日本人は彼らを憫れんでいるのだから。
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傾いた歴史観を水平に

 敗者の歴史はとことん暗い――50年も遡って、領土や権益を搾取されるから。(1)日本の韓国支配権とアメリカのフィリピン支配権を容認し合った桂・タフト協定(2)日本の韓国支配権とイギリスのインドにおける特権を認め合った第二次日英同盟(3)日本の韓国支配権とロシアの外モンゴルにおける権益を確認した第一次日露協約――これらの約束はいったい何だったのか。

 1919(大正8)年のヴェルサイユ条約により、委任統治権を獲得したドイツ領南洋諸島をカイロ宣言で米国が接収。

 1943(昭和18)年のカイロ宣言において、かつて朝鮮の宗主国だった清国の後継・中華民国が朝鮮の自由と独立を求める。日清戦争の不当性を訴え、米英に台湾の割譲を容認させる。さらには、義和団事件を機にロシアが奪ったはずの満州も「日本国カ清国人ヨリ盗取シタル」満州へと罪科を擦(なす)りつける。

 1945(昭和20)年2月のヤルタ協定では、ソ連が日露戦争の不当性を訴え、南樺太、ならびに得撫島(うるっぷ)以北占守(しゅむしゅ)島以南の千島列島の割譲を確約させ、対日参戦を模索する。

 同年7月のポツダム宣言においては、米英ソが大東亜戦争の不当性を訴え、恥ずかしげもなく、中華民国の立場に立った。

 おかしいと思わぬか。まさに「勝てば官軍負ければ賊軍」なのである。一般に、戦争に行き着くまでにはさまざまなことがある。1894(明治27)年の東学党の乱(甲午農民戦争)以後、朝鮮の混乱を沈め、これ以上、在留邦人の犠牲を出さないために、日清両国で朝鮮の内政改革に当たっていこうという日本の提案に対して、朝鮮の宗主国であることに拘泥して一蹴したのは清国である。ようやく取り決めた天津条約(1958年)を一方的に破棄してきたのも清国である。こういうことがあっての日清戦争。

 また、日露戦争についても、1900(明治33)年の義和団事件ののち、十数万人規模の軍隊でもって、満州を軍事占領したロシアに対して、日本側はその不法権益を認める代わりに、朝鮮への不可侵を約束させようと満韓交換論を提案している。T・ルーズベルト大統領のもとへ特使・金子堅太郎を送り、和平の道を模索したのも日本である。「吹っかけた」のでは断じてない。

 あらん限りの欲望を詰め込んだ尾篭(びろう)を前にして、敗者はこのまま口を噤(つぐ)んだままでよいのだろうか。墨で塗られた敗戦国の歴史は、自ら取り戻していくよりほかにない。極端に偏った思想に苛まれた日本人は、邪を邪と認めることは厭というほどやってきた。では、邪として葬ってきた正なる歴史をいま、繙(ひもと)いてみようではないか。

 18世紀以降、産業革命によって不足した原料や市場を求めて、開国を強いた欧米に対して、日本は自国の存亡を憂える一心で、朝鮮に開国を求める。が、開国後に当然、行われると期待していた自発的な近代化が待てど暮らせど始まらない。その間、壬午事変、甲申事変の屈辱に耐え、朝鮮開化派の指導者・金玉均(きんぎょくきん)の暗殺も忍んだ。中国大陸には、西欧列強がずらりと顔を並べ始めている。明日の中国は朝鮮であり、日本であるというのに、それでも列強の餌食たる清国の手下に甘んじていたのは朝鮮自身ではないか。そのような折、逼迫のもとにあった日本と世界の形勢を洞察し、喝破した福沢諭吉は実にみごとであったといわねばならない。

 今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予あるべからず、寧ろ、その伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するが風に従て処分すべきのみ。悪友を親しむ者は共に悪友を免かるべからず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。(1885年3月18日付時事新報社説より)


 以後、日清、日露戦争を経て韓国(大韓帝国)を併合。朝鮮は近代化を遂げ、現・韓国(大韓民国)繁栄の礎を築いていった。当時の日本にとって、半島の近代化はまさに死活だったといえる。つぶさに見ていけば、日本の統治に対する不満や怒りもあったと思う。だが、もう少し大きな枠でことを捉えれてみてほしい。「あの」統治なくして「この」向上なし――人口増加や平均寿命の上昇、教育水準の向上はいずれも日本の誇らしい功績だ。また、何よりソ連によって、永遠の労働という鎖につながれ続けていた可能性があったことを考えてほしい。座して待てば、独立することなく、――あるいは、中華思想的な観点からいえば、その方がましだったのかもしれないが――西洋列強に隷従することになっていたのである。それは日本人も同じだ。ここに思いを馳せるとき、ともに戦った祖先に誇りと感謝の念が湧いてくるのではないだろうか。

 一方、清国や中華民国に遺した功業は少ない。だが、中国大陸に遺した資産は、北朝鮮30億ドル、韓国23億ドル、樺太4億をはるかに超える153億ドル(いずれもGHQ調べ)に上る。また、近年になって公開された文書や検証によって、張作霖爆殺事件(1928年)や盧溝橋事件(1937年)に特務機関が関与していた可能性が指摘されている。それもそのはず、中国へは侵略意図に乏しく、望んだのはもっぱら満州統治の継続だったのだ。

 フィリピン(アメリカ)、ビルマ(イギリス)、ベトナム(フランス)、カンボジア(フランス)、ラオス(フランス)は大戦下で独立を果たし、マレーシア(イギリス)、シンガポール(イギリス)、ブルネイ(イギリス)、インドネシア(オランダ)も戦後、独立を果たす。いずれも日本軍による欧米列強の駆逐とそれにともなう独立気運の回復なしには考えられず、現にこれらの国が終戦直後に独立したことに反発して戻ってきた国さえあったほどだ。

 この結果を見ずして、己の歴史の回復に着手せずして、真の平和は語れない。「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」というが、戦後65年を経ようとする今日の日本は、「吹」き続けたものの正体が「膾」であったことをそろそろ悟らねばならない。

談話の上塗り

 菅直人首相は10日、首相官邸で記者会見し、29日に控えた日韓併合100年にあたり、首相談話を発表した。過去の朝鮮半島の「植民地支配」に関し、「多大の損害と苦痛に対し、改めて痛切な反省と心からのおわびの気持ち」を表明し、李氏朝鮮時代の儀典書「朝鮮王室儀(ぎ)軌(き)」など朝鮮半島由来の図書を韓国に「お渡ししたい」と明言した。

 首相は今年を「日韓関係にとって大きな節目の年」と位置付け、「アジア地域でより安定した形が、日韓を軸に、さらには日韓米の3カ国で形成されることは極めて大きな意味があり、それを展望して談話を発表した」と説明した。

 これに先立ち、政府は10日午前、首相談話を閣議決定した。その後、首相は韓国の李明博大統領と電話会談し、「これまでの100年について反省すべきは反省し、これからの100年に向かって(日韓が)協力して歩んでいこうという気持ちを込めて談話を作成した」と説明した。李大統領は「真心を受け止めたい」と謝意を示した。

 首相談話では、日韓併合を「政治的・軍事的背景の下、意に反して行われた植民地支配」とし、「韓国の人々は国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷つけられた」とした。

 朝鮮王室儀軌は旧朝鮮総督府から宮内庁に移管された。昭和40(1965)年に締結した日韓基本条約関連協定で財産・請求権を相互放棄したため、談話では「返還」ではなく「渡す」とした。実際の引き渡しには新たな条約を締結し、国会承認する必要がある。

 首相談話は戦後50周年の「村山談話」(平成7年8月)、戦後60周年の「小泉談話」(17年8月)などがある。両談話のおわびの対象は「アジア諸国の人々」だったが、今回は韓国のみを対象とした。(10日付産経新聞「日韓併合100年 首相談話を閣議決定 『植民地支配』を重ねて謝罪」)


 菅直人首相は10日、日韓併合100年を迎えての首相談話を発表した。談話は「植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明」するとしており、基本的には「戦後50周年の終戦記念日にあたって(村山談話)」を踏襲する内容となっているが、「政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられ」たと村山談話より踏み込んだ点もある。

 これまでに発表された談話のなかで、大いに疑問符の付く中身となった談話をここで振り返っておきたい。(1)1982(昭和57)年の「『歴史教科書』に関する宮沢内閣官房長官談話(宮沢談話)」(2)1993(平成5)年の「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(河野談話)」(3)1994(平成6)年の村山談話(4)2005(平成17)年の「内閣総理大臣談話(小泉談話)」についてである。

 (1)宮沢談話は1981(昭和56)年度の教科書検定において、文部省(当時)が「侵略」を「進出」に書き換えさせていたという報道(のちに誤報であったことが判明)に中国や韓国が反応したことを受け、宮沢喜一官房長官(当時)より発せられたもので、これ以後、教科書の記述に当たっては、近隣諸国に配慮するという「近隣諸国条項」が盛り込まれた。他国の検閲をパスしなければ、教科書を発行できないというまるで占領下のような制度がここに始まったのである。

 (2)河野談話の「長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた」とする冒頭部分は必ずしも間違った記載でないが、「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営された」「慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たった」「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいもの」「募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」との記述は明らかな誤謬を含む。これは後年、河野洋平元官房長官本人が「強制的に連行されたものかについては、文書、書類では(証拠は)なかった」(2007年3月1日付産経新聞「河野談話 慰安婦『強制性』に韓国から働きかけ」より)、当時官房副長官だった石原信雄氏が「随分探したが、日本側のデーターには強制連行を裏付けるものはない。慰安婦募集の文書や担当者の証言にも、強制にあたるものはなかった」(1997年3月9日付産経新聞「石原前副長官 『謝罪』の経緯語る」より)と認めたとおり、慰安婦調達の強制性を裏付ける証拠は何ひとつ存在しなかったことがわかっている。政府が発表するにはあまりにお粗末、でたらめな談話だった。

 (3)村山談話は「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ」たという大東亜戦争に対する認識や「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たという韓国統治に対する評価が偏っており、東京裁判と並んで今なお、多くの政治家や国民を縛り付けている。「近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援」するという無理難題を掲げた点も、いかにも村山氏らしい。

 前3つに比べると認知度は低いが、やはり看過できないのは(4)小泉談話である。これまで自民党歴代内閣には、村山談話を泣く泣く踏襲してきたものが少なくない。安倍晋三元首相は村山談話に代わる安倍談話の発表を考えていたが、1998(平成10)年に中国の江沢民国家主席が訪日した際に出された日中共同宣言のなかで、「日本側は、1972年の日中共同声明及び1995年8月15日の内閣総理大臣談話を遵守」することを謳っているため、断念せざるをえなかったという。これに対して、小泉純一郎首相は「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と好んで村山談話に賛同する意を示したのだ。

 いずれも「史実」に基づかないひどい談話であったが、その5つ目に堂々と加わったのが今回の「菅談話」だ。ここに改めて民主党政権の恐ろしさを実感した。市民運動や学生運動といった左翼活動を経験してきた首相と官房長官、「革命的マルクス主義派(革マル派)」の支持を得る幹事長のやることはやっぱり一味違う。

“日中戦争”73年

 去りし日に決せられた歴史認識は、近年になって公開された文書や資料により、その多くを改めるよう請われている。ソ連崩壊によりて、これだけの動揺をもたらしえたからして、当時の交戦国・中国の民主化、とりわけ共産党の解体によって再度、光を向けられるであろう歴史を凝視せずにはいられない。

 中国では、5月9日を「国恥記念日」と呼ぶ。1915(大正4)年5月9日にいわゆる「対華21ヶ条要求」を受諾したからである。この要求が平時に発せられたものなら、肯定するつもりはさらさらないが、「希望」であった5号条項を除けば、当時の列強が中華民国と結んだそれと相違ない。しかも、のちに5号は削除されている。また、交渉期間は4ヶ月、回数としても25回を数える。現・中華人民共和国のように、いかなる国もそれを侵す意思がないにもかかわらず、この要求を突きつけ、結果として進駐したなら問題だが、当時の日本にとっては、やるかやられるか――日本がとどまれば、明日の中国は日本だったのである。このような状況を差し置いて謝り続ける日本に対し、その他列強が謝罪したなど聞いたことがない。みなが咎(とが)められるならまだしも逼迫のもとにあった日本だけが批判される謂れはないはずだ。負けたが最後はやはりおかしい。

 1931(昭和6)年9月、柳条湖事件が発生。これはほぼ間違いなく日本軍による犯行と断定されているが、1922(大正12)年のワシントン会議において締結された「九ヶ国条約」等国際法を誠実に遵守する日本をいいことに、中国側、あるいはそのパルチザンらが日本に対して度重なる挑発行為を働いていたことを忘れてはならない。少なくとも、リットン報告書からはそう読み取れる。

 日本は中国の最も近い隣国であって、かつ最大の取引先である以上は、日本は交通機関の不備にもとづく無秩序な状態、内乱の危険、匪賊および共産主義の脅威などのために他のいずれの強国よりもいっそうひどく悩まされたのである。日本は他のいずれの強国よりも、国民を中国にもっている現状において、中国の法律、司法制度ならびに税制に服従させられたならば、それらの国民は、はなはだしく苦しむこととなる。(同報告書第19項)


 中国にある日本国民の生命および財産を保護しようとする熱望は、日本をして内乱または地方的騒乱の際、しばしばこれに干渉させる結果になった。(同報告書第20項〈b〉〈1〉)


 また、リットン報告書はそれ以前の満州開発についても、日本の活躍を認めている。

 広大かつ肥沃な地方である満洲は、わずかに四十年前までほとんど開発されず、また現在においてさえ人口稀薄である。(同報告書第22項〈a〉)


 日本の活動がなければ、満洲は多くの人口を誘致し、またこれを吸収することはできなかったであろう。(同報告書第20項〈b〉〈2〉)


 最初、満洲が各種政策の衝突地域となったのは、その戦略的地位が唯一の理由であった。だが、その後日本人によって満洲の農業、鉱業および林産資源が開発されると満洲は満洲自体のために垂涎されるに至った。(同報告書第20項〈c〉)


 満州は地政学的に優位なだけではなく、それ自体が価値を持つようになった。日本が価値ある土地に育てたということである。そして、満州の権益を得るに至った日清、日露戦についても、日本の立場を肯定している。

 1894年ないし95年の日清戦争は、その後の事件が立証したように、ロシア自身の利益のために、干渉する機会を与えた。(同報告書第23項〈a〉〈2〉)


 この戦争はロシアの侵害の脅威にたいして、自衛のため生死を賭して戦ったものである。(同報告書第29項〈b〉〈2〉)


 リットン報告書には疑問なところもあるが、このように納得できるところもあるのである。左派が「世界が日本の侵略を認めた文献」の一言で片づけてしまうのは、あまりに乱暴でもったいない。むしろ、「見られては困る何か」を勘繰りたくもなるものである。その最たるメディアの朝日、毎日両紙の当時の報道をご覧に入れよう。

 禍の基は理も非も無く、何ものをも倒さずんばやまないとする支那側の憎上慢であって、今日まで事なきを得たのは、日本の辛抱強い我慢の為であった。中村大尉事件は積薪に油を注いだもの、満鉄線路の破壊は積薪に火を放ったもの、日本の堪忍袋の緒が見事に切れた。真に憤るものは強い。わが正義の一撃に早くも奉天城の占領は伝ふ。日本軍の強くて正しいことを徹底的に知らしめよ。そして一日も早く現場を収拾して事件を解決せよ。(1931年9月20日〈夕刊〉付東京朝日新聞「今日の問題」より)


 いひ換ればわが国民の忍耐は、今回の事件によってその限度を越えたのである。ここにおいて国民の要求するところは、ただわが政府当局が強硬以て時局に当たる以外にはない。われ等は重ねて政府のあくまで強硬ならんことを切望するものである。(1931年10月1日付東京日日新聞「社説」より)


 柳条湖事件とは、万宝山事件、中村大尉事件(いずれも1931年)といった「無秩序な状態、内乱の危険、匪賊および共産主義の脅威などのために他のいずれの強国よりもいっそうひどく悩まされた」日本の「堪忍袋の緒が見事に切れた」と両紙は説く。無論、このほかの新聞社とて同じであった。

 満州の政治的安定は、極東の平和を維持する絶対の条件である。而して満州国の独立と其の健全なる発達とは、同地域を安定せしむる唯一の途である。東洋平和の保全を自己の崇高なる使命と信じ、且つそこに最大の利害を有する日本が、国民を挙げて満州国を支援するの決意をなしたことは、まことに理の当然といわねばならない。いな、ひとり日本のみならず、真に世界の平和を希求する文明諸国は、ひとしく満州国を承認し、且つ其成長に協力するの義務ありというも過言ではないのである。


(中略)


 苟くも満州国の厳然たる存立を危うするが如き解決案は、たとひ如何なる事情、如何なる背景に於いて提起さるゝを問わず、断じて受諾すべきものに非ざることを、日本言論機関の名に於いて茲に明確に声明するものである。

 昭和七年十二月十九日

 日本電報通信社 報知新聞社 東京日日新聞社

 東京朝日新聞社 中外商業新報社 大阪毎日新聞社

 大阪朝日新聞社 読売新聞社 国民新聞社

 都新聞社 時事新報社 新聞連合社

 他百廿社(イロハ順)(1931年12月19日付東京朝日新聞「共同宣言」より)


 ついで日本が主導した満州国の建国については、世界のコモンセンス(常識)と合致している。軍事制圧した地域の安定を図るため、そこに新政府を作る手法は、過去に○○でみられたほか、近年はアフガニスタン空爆やイラク戦争においてもなされた。当時はもちろん、いまだに通じる価値観なのである。まして満州事変が不安定に端を発したものであるならなおさらである。

 ときは流れて1937(昭和12)年7月7日、盧溝橋事件により、結果的に「日中戦争」に突入する。在留邦人や在留公館が襲撃された義和団事件のあと、大陸には日英米仏独伊西墺(オーストリア・ハンガリー帝国)の8ヶ国が、北支地区には日英米仏伊の5ヶ国が駐留していた(北京議定書)。その北支地区・盧溝橋にいた日本軍が7日午後10時40分ごろ、何者かに攻撃を受けたのである。

 だが、対米戦を見越していた日本は、和平の途を模索する。戦闘開始から5日後の12日には、停戦を約束する松井・秦徳純(しんとくじゅん)協定が一旦は締約されるも、蒋介石は戦線拡大を見込んで軍備を増強、25日には廊坊(ろうぼう)事件、26日には広安門事件、29日には通州事件を引き起こし、協定は幾度も反故にされた。それでも、新たな停戦協定を結ぶべく、8月9日から船津和平工作を試みるが、大山中尉殺害事件が発生、第二次上海事変に突入する。沈静化を願う日本をよそに、中国側のこうした反逆があったのだ。

 以後、中国大陸に日本軍が群がるわけだが、これは戦線拡大というやむをえない事情によるものだ。仏印進駐へと至った要因が援蒋ルートの遮断、つまり米英が中立義務を果たさなかったことに対する報復であることは誰もが認めるところである。そして、このいずれも協定が結ばれての駐留であった。

 1945(昭和20)年8月15日、わが国は敗戦を迎えた。大陸では、国共内戦を経た1949(昭和24)年、中国共産党による一党独裁国家が成立。「漁夫の利」といったところだろうか。わからないことはまだまだ多いが、巷の書物を読めば、習った「歴史」とはずいぶん異なる歴史に出会える。これは「改竄」でも「妄想」でもなければ、「修正」でもない。真実を知るための弛まぬ営為である。

永遠に続く中韓の謝罪要求(下)

 ■軍による慰安婦強制連行という虚構

 慰安婦が存在したことは事実であり、問題は当時の軍、または政府による強制があったか否かである。なぜこのようなことをあらかじめ断っておくかといえば、驚くべきことに、この点に関する事実誤認が今なお、散見されるからである。もともと「従軍慰安婦」ということば自体が存在しなかったが、千田夏光氏の著書『従軍慰安婦』(双葉社、1973)に始まり、陸軍に所属していた吉田清治氏が『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社、1977)という作り話(フィクション)を記したことでいよいよ本格化した。ところが、その当人は自書が虚構であったことをのちにあっさり認めてしまった。このような日本人として、とりわけ元帝国軍人としてあるまじき、世間をただただ困惑させただけの法螺吹きには、厳しい制裁が下されてしかるべきであるが、これも前項の『朝鮮人強制連行の記録』と同様に嗅ぎつけたマスコミ、とりわけ朝日新聞の仕業であった。

 朝日新聞の悪行はなおも続く。1991(平成3)年8月11日、記事で元慰安婦と報じられた金学順(きんがくじゅん)氏は、実際は身売りであったにもかかわらず、朝日新聞記者・植村隆氏は「女子挺身隊」と「従軍慰安婦」を無理やり結びつけた。軍の強制いかんの前に、強制連行同様、検証すれば、すぐに虚偽だということがわかるはずである。たとえば、1947(昭和22)年に慰安施設で苦痛を強いられていたとか、証言者の年齢から戦後の経過年数を引くと、小学生にも満たないとか、粗笨(そほん)な証言を抱えたまま元慰安婦であると名乗り出ている。もちろん、身売りや金銭目的であったとしても、女性の本懐でなかったことには変わりなく、不幸であったことは承知しているが、当時の政府が人攫(さら)いのごとく連れ去ったり、甘言によって誘拐することを厳しく禁止していたことは紛れもない事実であり、また多くの歴史家の認めるところである。

 支那事変地に於ける慰安所設置の為、内地に於て之が従業婦等を募集するに当り、故らに軍部了解等の名義を利用し、為に軍の威信を傷つけ、且つ一般民の誤解を招く虞あるもの、或は従軍記者、慰問者等を介して不統制に募集し社会問題を惹起する虞あるもの、或は募集に任ずる者の人選適切を欠き、為に募集の方法、誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くる者ある等、注意を要する者少なからざるに就ては、将来是等の募集に当たりては、関係地方の憲兵及警察当局との連繋を密にし、以て軍の威信保持上、並に社会問題上、遺漏なき様配慮相成度、依命通牒す。(1938〈昭和13〉年3月4日付陸軍省兵務局兵務課「軍慰安所従業婦等募集に関する件」より)


 資料も根拠もなく、旧日本軍に慰安婦調達の強制性を認めたいわゆる「河野談話」も大きな問題であった。宮沢喜一首相(当時)や河野洋平官房長官(当時)は、強制性を認めさえすれば、決着がつくと判断した。そもそもはこれが大きな誤りである。当時官房副長官だった石原信雄氏は、この判断が韓国側の資料のみに基づいた政治判断で、慰安婦調達の強制性を裏付けるような証拠はなかったことを認めている。国売りし当事者が政界を去った今、確たる事実を持たない談話の撤回が改めて求められる。

 また、韓国側としても、貞操観念の強い民族の自尊心を守るためには、自発的ではなく、日本軍の強制という不可抗力が潔癖な韓国人を一時的におかしくしたという言い訳がほしかったのではないだろうか、そんな見方もある。なぜなら、同じく当時、日本だった台湾では、ここまでの騒ぎはないからだ。現在の尺度で眺めれば、慰安婦それ自体を是認しがたいが、当時、売春は世界各国で認められており、日本の慰安婦も民間業者と正式な雇用契約を結んでいた。こういった歴史は、広く人類の汚点として反省すべきだろう。しかし、現在と過去の混同は避けるべきである。朝鮮半島を取り巻く儒教思想をわれわれも学び、相手のねらいを見極めた賢明な外交力を身につけたい。

 ■大虐殺説定着への恐れ

 前述の南京大虐殺とは、1937(昭和12)年12月13日の南京陥落の翌日から6週間の間に、非戦闘員や捕虜を含む大量の中国人が殺害されたとする事件である。松井石根(いわね)大将が命令を行ったとされ、のちに東京裁判によって絞首刑に処せられた。実は、その松井大将は大の親中派として知られ、日中戦争における日中双方の犠牲者を弔うため、熱海に興亜観音を建立している。南京事件については諸説あるが、まず中国側が主張する30万人虐殺は、当時の南京の人口が20万人程度であったことからしてもありえない。彼らが訴えるようにいくら日本軍が残虐非道だったとしても、「人なきところに殺人なし」なのである。これは中国側の一方的な主張であり、今後も数値のさらなる改竄が懸念される。

 私は歴史の専門家でもなければ、この件に関して読んだ書物も少ない。したがって、私見としてにとどまるのだが、日本軍が行った便衣兵(ゲリラ)掃蕩作戦は市民に扮した便衣兵が多数存在したためにずいぶん手を焼いたという。それゆえ、便衣兵と市民との見間違い、あるいは流れ弾によって無辜(むこ)の民を殺傷しなかったとは考えられない。だが一方、当時中国側が国際連盟において「南京における日本軍の暴虐」と主張した際は、犠牲者数を2万人と報告しており、これに対して、国際連盟から非難決議が出されなかったことからしても、論争にあるような2万人以上を虐殺したとは考えづらい。また、当時の日本軍の武装・設備からして、大量虐殺が可能であったか、また本来見つかるはずの大量の人骨も見つかってはいない。捕虜としての資格を逸していた便衣兵を殺傷したのか、あるいは彼らまでも軍法会議にかける必要があったのか、百人斬り競争の有無など論争はまだまだ絶えない。

 ■中華思想の恐ろしさ

 いくら謝罪をしても、絶対に許すことはないという恐ろしい中華思想の実態をわれわれはもっと知らねばならない。当時、アメリカ政府が、ルース・ベネディクトに日本を調査するよう依頼したように、日本が中韓に対して、文化人類学的アプローチを試みることも、意味のないことだとは思わない。歴史は残る。だから、たとえ虚実であっても、恥じない歴史の構築が必要である、とする思想圏に生きるものに、われわれが安易に近づけば、大火傷を負うことは不可避なのである。

 われわれの多くは、「水に流す」「ときがたてば忘れる」とかいう元来備わっている忘却の弧が正常に機能している。あの無差別かつ大量殺戮、2発の原爆によって、無量の同胞を失えど、今アメリカとは友好関係にあり、国民レベルの交流も厚い。700年間もの間、欧州の搾取に涙したアフリカの怨恨感情も、今ではずいぶん薄いという。民族性ということばに矮小化せずとも、いたずらに敵愾心(てきがいしん)を煽ってきた2つの政府の過失は大きい。
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オーデーベース

Author:オーデーベース
 顔と名前をお見せするその日のために、鄙見を認(したた)めてまいります。市政か、県政か、あるいは国政かわかりませんが、愛する日本と故郷のために勇往邁進することをお誓い申し上げます。

 人ひとりにできることは限られております。あるいは遺産も功績も何ら残せずに終えてしまうかもしれません。ただ、あのころの先人はよくやったと後世に云われたとき、その十把一絡げにされた先人のひとりにでもなれたのなら、それは大変喜ばしいことであります。子孫に少しばかりはわれわれを顧みてもらいたいなどというおこがましい希望はだれにでも起こりうるのではないでしょうか。それは、おおいに欲深い願望なのかもしれません。しかし、先祖を回顧していないわれわれだけが回顧されようなどという考えそれこそがおこがましいものであるにちがいありません。

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